どもりなんてたいした事ない、、微妙
多くの吃音者がそうだと思うが
基本的にはバレない様に隠す事を日常としている。
今はしていなくてもそうだった時期は長くあっただろう
私は家族等日常慣れている人達の間では滅多にどもらない、、
勿論皆は僕がどもることは知っている。
バレないように、または気にしていない様にみえるから
たいした事無いと思われるしそう思われたいとも思う。
「同情」される事が一番辛いからだ。
「どもりぐらいなんだ」というブログ
勘違いして欲しくないのだが、こちらのブログを批判をする訳ではない
とてもよく説明出来ているし面白いとも思う。
ちょっとわかりやすいからリンクを貼らさせてもらった。
ルーズヴェルトが英国王に対して「どもりくらいで悩むな俺はもっと辛い事あるんだから」、、とういう様な内容が一部ある。
どもりくらいなんだ、、
この、、
それくらいなんだ、、で悩む悔しさが辛い。
僕はマクドナルドでバイトは出来ないだろう、、
もしどうしてもしなければいけないという事が起きたら
夜も眠れない位悩み苦しむだろう。。
「英国王のスピーチ」という映画のように
ましてや全国民が聞くであろうスピーチだったらどうなってしむのだろうか?
なぜ単なるスピーチが映画になったか、、、これがこの映画の素晴らしいところだと僕は思った。
たかがスピーチ、、程度で苦しくなる悔しさ
同じ吃音者として痛いほどわかる映画だった。
どもりに限らず僕らは他人に対して「何でこんな事に悩むの?」
という事が多い。。
なんでこの程度でこんな事しちゃうの?という事件記事も多い。
なんで?、、という事は理解出来ないされない
理解されない人は孤独感が増す。
こんな時に愛してくれる人が側にいてくれれば良いけれど、、必ずしもそううまくはいかないものだ
普段話すときは大丈夫なのだから話せるだろ!!
と思われる。実際僕も自分自身にそう言い聞かせる時もある。
でも、、病気の人に「気持の問題だ!」と言うのと同じ
もし本当に気持の問題であったとしても、、その気持=心はとても難しい。